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奥州平泉の歴史散策 前編

奥州平泉の歴史散策

2004年の岩手県平泉町の探訪記です。平泉は、平安時代末期、奥州藤原氏三代(清衡、基衡、秀衡。秀衡の子で頼朝に滅ぼされた泰衡を入れると四代、頭文字をとってキ・モ・ヒ・ヤスと覚える)が黄金文化をつくり上げた中心地。その富を象徴する中尊寺金色堂が今なお残っています。

また、兄である源頼朝に追われた義経が秀衡を頼って落ち延び、秀衡の死後、泰衡に討たれて最期を遂げた地として知られます。

記事の前編である本稿では、奥州藤原氏と奥州の歴史について触れ、後編は平泉観光の様子をご紹介したいと思います。

藤原の郷

(写真:藤原の郷)

なお、本文中の写真で「【復元・藤原の郷】」とあるのは、平泉のお隣、奥州市の「歴史公園えさし藤原の郷」の建物の写真です。

「えさし藤原の郷」は、秀衡の居館であった伽羅御所(きゃらのごしょ)や平泉の政庁をはじめ、数々の平安時代の建物を再現したスケールの大きなテーマパークです。平泉観光の際には、あわせて訪ねてみることをおすすめします。

奥州藤原氏は、平安貴族の藤原氏とは関係あるのか

まずは、奥州藤原氏の話からです。藤原氏と聞いて誰しも思い浮かべるのは、藤原道長・頼道父子をはじめとする平安貴族の藤原氏ですね。清衡を初代とする奥州藤原氏は、平安京で栄華を誇った道長の藤原氏(藤原北家)とは関係があるのでしょうか?

藤原の郷

(写真:藤原の郷)

清衡の父経清(つねきよ)は、系譜の上では、平将門の天慶の乱を鎮めた藤原秀郷(俵藤太秀郷)の五世の孫ということになっています。

藤原秀郷は、藤原房前(ふささき・藤原不比等の子)の子孫ということになっていますから、系譜を信じれば京都の藤原氏と奥州藤原氏は遠い親戚ということになるでしょう。

次に、この奥州藤原氏が奥州の覇者となるまでの歴史をひもといて見ましょう。

奥州の歴史

-前九年の役-
現在の岩手県地方は、かつては奥六郡と呼ばれ、蝦夷(えみし)の支配する天地でした。

平安時代初期、征夷大将軍・坂上田村麻呂の遠征により、一時は中央政権の版図に入りますが、その後、中央政府の統制力の弱まりとともに、土地の豪族、安部氏が力を握るようになります。

この安部氏の娘婿となったのが、清衡の父で陸奥国府の官人を務めていた藤原経清です。

安部氏にすれば、娘を中央政府の役人に嫁がせることで、自分の権力を保持しようという政略的意味合いがあったのでしょうが、結果としてこの結婚が経清の命取りになります。

豊田館【復元・藤原の郷】

(写真:豊田館【復元・藤原の郷】。安部頼時の娘婿となった経清は、現在の江刺にあった豊田館に移り住み、この地で清衡は生まれた)

あまりに勢力が強大になった安部氏を征討するため、永承6(1051)年、朝廷は源頼義・義家父子を奥州に派遣します。

この源頼義・義家父子と安部氏との戦いが前九年の役(ぜんくねんのえき)です。ちなみに義家は、鎌倉幕府を開いた源頼朝の高祖父(ひいひいおじいさん)です。

この戦いで清衡の父・経清は、はじめ国府の官人として、朝廷軍につきますが、後に義父である安部頼時側に寝返り、戦果を挙げます。

しかし、最後には出羽の豪族、清原氏の援けを得た朝廷軍が厨川の柵(くりやがわのさく)で勝利し、経清は処刑されます。

厨川の柵(くりやがわのさく)【復元・藤原の郷】

(写真:厨川の柵(くりやがわのさく)【復元・藤原の郷】。厨川の柵は、現在の盛岡市にあった安部氏の柵。柵というのは砦のこと。ここに阿部氏が最後まで立てこもり、源氏・清原氏の連合軍と死闘を繰り広げた)

前九年の役で朝廷軍に協力した出羽の清原武則(たけのり)は、鎮守府将軍の称号を受け、滅びた安部氏の旧領奥六郡も併せ持つ、奥州の大豪族となりました。

父を処刑された清衡はというと、清衡の母が、敵将である清原武則の子息・清原武貞に再婚させられることになり、母子ともに清原氏に身を寄せることになりました。清衡七歳の時だったとされます。

幼くして敵将の館に身を寄せた清衡は、どんなにか心細かったでしょうか。

-後三年の役-
清原武貞には、清衡も含めて、真衡(先妻の子。清衡の兄に当たる)、家衡(武貞と清衡の母との間に生まれた子。清衡の弟に当たる)の三人の息子がいましたが、やがて、この真衡・清衡・家衡の三人が三つ巴の跡目争いを始めます。

当初は清原氏内部の私闘でしたが、これに陸奥守・源義家が干渉し、後三年の役(ごさんねんのえき)へと発展します。

真衡が急死し、戦いは、義家と結んだ清衡が家衡を打ち破り終結します。戦後、清衡は豊田館(現在の江刺)から平泉に移転し、奥州の覇権を確立して行きます。

-奥州の栄華と滅亡-
その後の奥州の栄華はご存知の通りです。

中央政府から与えられた官位といえば秀衡の陸奥守がせいぜいで、辺境伯といったところですが、実力からいえば奥州の大地が生み出す黄金と良馬(当時、馬は貴重品であった)による経済力を背景に、白河関以北は、中央の権力の及ばない独立王国のような様相でした。

こうして栄華を極めた平泉ですが、文治5(1189)年、源頼朝率いる鎌倉幕府軍が、28万4千騎の兵をもって平泉を攻め、このとき、退却する泰衡軍は平泉の街に火を放ちました。

その後、主が居なくなった平泉の堂塔伽藍は、その後の野火などで焼け失せてしまい、金色堂など一部の遺構を除けば、当時をしのぶものは残っていません。

後編では、平泉の町を歩いてみます。

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